2018年7月9日 第3回

ジャンルとしての演劇の魅力の創り方
小林 遼

 山田企画では、山田さんが当事者研究に造詣が深いこともあり、演劇人の為の当事者研究を行っております。4月から始まった企画ですが、7/9に3回目のWSが行われました。前回同様当日の流れと、派生して考えたことを記したいと思います。

 途中参加したため最初の方は伝聞と類推です。すいません。

 まずは、当事者研究のコツみたいなものを共有し、「演劇をやっていて最近困っていること」を話し合うことから始まったようです。「やりがい搾取」「お金がない」がKey wordになっていたように思います。詰る所、演劇界に人的にも物質的にも資源が乏しいことに原因があるようです。

 そこで、会の流れとしては、演劇のPRの仕方;説明する力・つながりを発見する力 をどう見つけていくかにシフトしていきました。

 それは、演劇に関心を持ってくれる人、特に、長期的な関心を持ってくれる人を増やすためにどうするか?「ジャンルとしての魅力を提供するには?」という疑問に変わります。

 

 次に、参照として当日の参加者が、演劇以外に興味ある物事に関心を持ったキッカケと経緯について話し合いました。(この辺りから私も参加します)

このテーマについては、

・関心を持つ人(ファン)の階層化 ex.神←→ニワカ

・他ジャンルだが、近接領域のファンを取り込む ex.青文字系雑誌のカルチャー欄

といったことが、ポイントになるのではと話し合われました。

 

 また、各参加者が演劇を始め、続けている動機についても話し合われました。当然ながら各人多様ではあるのですが、そのベクトルのズレ具合は、他の同一ジャンル好きの話し合いとは比較にならないんじゃないかと思っています。

 

 一般に、「演劇」という言葉が想起させるイメージと、「演劇をしている」と言う、個人の活動の在り方には乖離があります。実際、私も、「自分は演劇をやってましてー」なんて話し始めると、次第に両者の持つ演劇という言葉が指すイメージに、大分ズレがあることに気づき、慌てて修正することも多かったりしました。なので最近は、自分の「演劇」の捉え方を提示してから話すか、もはや「演劇」という言葉を使わずに話したりしています。

 そもそも演劇とは何を指しているのでしょうか?誰が決めたのでしょうか?最近は、performing artsと表象することもありますが、まだ一般に周知されているとは言い難く、非演劇関係者及び需要者を前にしては、あまり有用でない気がします。

 自分が入っている空間の外観と居所を知るためには、外から見るに越したことはありません。私を覆う演劇というジャンルを内在し、「演劇」をツールとして、自らに備えていきたいと思います。そのツールの価値は、非演劇のフィールドで使われることで判定されます。

 

 つまり、他分野への応用を通して、却って演劇の価値を確かめることになるのではないでしょうか?使うものによって、ツールは形作られ、磨かれるので1つではありません。各々が、それぞれのフィールドで「演劇」を駆使して、課題に取り組むことができます。こうした、活動の総体として、演劇は存在し、それは時代によって変遷し、受け止められるものではないかと感じています。

 
 
はじめての当事者研究
曽根千智

当事者研究って怖くない?

 初夏のある日の夕方、走り穂で小さな輪を作り、山田さんの話を聞いていた。聞きながら、山田さんが企画の概要を話してくれた日のことを思い出した。山田さんは「これもひとつの当事者研究です」と言って例を挙げた。たしか、妄想癖のある3人が当事者研究として集まって議論する話で、参加者には自分にしか見えない幻想があり、他の参加者には当然ながらそれは見えない。互いに「そんな妄想あるわけないじゃないか、君はおかしいよ」と指摘し合うことで、徐々に妄想癖も落ち着いてくる、という実験の話だった。
 この話を聞いたとき「なんて荒療治だろう」と思った。同時に「それを観ていた観察者はきっと笑いを堪えるのに必死だっただろう」と思った。疾病とはいえ、個人の価値観や見えているものを実験の構造をもって意図的に否定しているように見えたし、同時に外部の人間から見ると、参加者が必死で自分の妄想を正当化しようとする姿は、彼が一生懸命であればあるほど滑稽なものに見えるだろうと思ったからだ。
 だから実を言うと、この研究会に参加するハードルは高かった。私たちが深く自分の体験に潜り込んで具体的に話すことは、中にいるときは楽しくて夢中でも、外に出てしまうとひどく変で不格好なことに見えるのではないかと漫然と怖いと思っていた。

興味のないものに興味を持つきっかけ

 そんな先入観を捨て置き臨んだ今回は、演劇をめぐる2つの話題で話が進んでいった。1つめは、資金が潤沢にない中でどうすれば疲弊せずに作品を作り続けていくことができるのか、という環境の問題。2つめは何を動機にして演劇を続けていくのかという個人の内面のモチベーションの問題。この2つは切り口が違うが同じ問題で「どうやって私たちは演劇を続けていくのか」という問いである。私にとって、前者の「演劇に興味のない人を劇場に呼ぶには」という議論の中で出てきた「関心のないものに人はどのような過程を経て関心を持つか」という体験談の話がとても興味深かったので、ここに焦点を当てたいと思う。
 興味のないものに興味を持つきっかけは、やはり「人から勧められた」が多かった。もちろん今まで興味のなかった場所に自分の身体を運んでいくわけだから、勧めてくれた人への十分な信頼がないと成り立たない、というのはよくわかる。その上で、どうやらその後の展開によって2パターンに分かれるらしい。
 Tさんは、勧めてくれた人(=以下、情報提供者)が当人に対して継続的にあれこれ勧め、あまりに干渉しすぎると当人は自発的に情報を取りにいくことがなくなり、徐々に情報提供者から新情報が来るのを待つようになると述べた。反対に私は、クラブに良い音を聞きに行くのが趣味の同居人を例に、情報提供者が適切なタイミングで情報収集の方向付けをしてくれたおかげで、自発的な探求の時間が取れ、音楽への興味を持続させることができた体験を述べた。

 

AIDMAとAISAS

 ここで消費行動のプロセスモデルとして、AIDMA(アイドマ)の法則を共有したい。この法則は、1920年代にアメリカのサミュエル・ローランド・ホール氏が提唱したと言われている、プロモーション戦略を立てる際に用いるフレームワークで、現在でも広く使われている。AIDMAは、Attention(認知)、Interest(関心)、Desire(欲求)、Memory(記憶)、Action(購入)の頭文字を取ったもので、この5つの段階はさらに、認知段階(Attention)、感情段階(Interest・Desire・Memory)、行動段階(Action)の3つに分類されている。
 さきほどの体験談に擬えると、特に感情段階での情報提供の量と情報源の数が興味の持続性を決めているように思える。となると、AIDMAに代わるモデルとして2004年に電通が提唱したAISAS(アイサス)モデルで考えるほうが適切かもしれない。これはインターネットが普及した市場でのモデルをAIDMAに則って上書きしたもので、Attention(認知)、Interest(興味)、Search(情報収集)、Action(購入)、Share(情報共有)の5つの段階があると定義している。ネットが普及すると自ら情報を取りにいけるようになるため、勧められたものが本当に面白いのか、また自分に合うコンテンツなのかの検証が可能になる。検索が面倒で離脱する可能性も高いのだが、自分で能動的に情報に触れにいくという行動がさらなる興味を喚起し、購入に繋がるとされている(昨今のCMや街中広告にある「続きはWEBで」のカラクリはこれである)。

演劇をめぐる言葉は多様か?

 これを思うと、演劇に興味をもってもらうために課題となっているのは、感情段階、つまり信頼できる情報提供者の不足と情報収集のやりにくさにある、と推測できる。演劇批評家の堅い文章だけでなく、もっとゆるく笑える観劇エッセーがあってもいいし、あるいは劇中の音楽や衣装だけを取り上げて専門的に論じる文章があってもいい。気軽にアクセスし自分の興味と照らし合わせて次に観に行く公演を見つけられる情報収集サイトがあってもいいし、某グルメサイトのように口コミで星を付けるサイトがもっとたくさんの種類あってもいい。こうして考えてみると、似たコンテンツとしてよく比較される映画や本とは違い、演劇をめぐる言葉には意外にも多様性がないことに気付く。私たちが思っているより、演劇は限られた枠、限られた文体の中で生きているのかもしれない。議論の中に出てきた「演劇のフレームワークを問い直すべきだ」という話にも繋がるが、自分たちの中の「演劇とはかくあるべき」という足枷に、外へと向かう視界を無意識に遮られているのではないかと感じた。私のようなまだ演劇を始めて2年と経たない人でも簡単に自ら足枷を付けてしまうのだから、意識して外の景色が美しいことを思い出す必要がある。そしてその景色を人に伝える楽しさ、その語り口の多様性こそ面白いのだと知っていきたい。

​他の人の矢印を見て

 白熱した議論を終えて、帰路の電車。ふと「あれ、全然怖くなかった」と思った。なるほど、参加者同士が尊重しあっていれば、相手の話を歪めずそのまま受け取ろうという意思が共有されていれば、当事者研究は自分の内側を客観的に見つめるには、うってつけの場だ。よく、悩んでいるときは紙に自分の考えていることを書き出すという人がいるけども、それに近いと思った。違う点は、自分が吐き出した言葉に、他の人が(勝手に)矢印を書いてくれたり丸で囲んでくれたりするところ。その矢印や丸を見て「いや違うでしょ」と自分で書き足したり「その発想はなかった!」と驚いたり。当事者研究は、怖いどころか心地よい緊張感と発見のある場だった。
 ただ、もしこの議論に外の輪があって私達の議論を見ていたりなんかしたら、きっと大笑いしてるだろう。滑稽だな、やっぱり人間だなあなんて思って大笑いしているだろう。いま筆者は利賀に滞在中なのだが、稽古場見学をさせてもらったとき、SCOTの鈴木忠志さんも言っていた。「あのさ、真剣にやってもいいんだけど、真剣にはいつもユーモアがなきゃ。だって考えてみてよ。こんなふうに体動かしてバカバカしいんだもん。でも、だから心は動かされる」
 真剣な悩みや緊張した身体というものは共有しにくいもので、だからこそ自分との違いがはっきり見えて興味が掻きたてられるもので、いつだって人間らしくて愛おしいものなのだ。それこそ演劇だなと思うと、当事者研究もある種の作品と言えるかもしれない。演劇のフレームを広げる最初の一手は、すぐそばにあった。