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2018年8月10日 第4

​互いに言葉を尽くすために

 演劇の当事者研究会を今まで毎回3.5時間ほどびっしり3回行ってきました。そろそろ煮詰まってくる予感がするので、今回はワークショップを行うための準備として、ワークショップに関して研究する回としました。
 ファシリテーターとして何度も同じ事を説明するのが恥ずかしいといった思いや、参加した際に一方的なコミュニケーションに違和感を覚えた経験、ワークショップを開催するには自分の中で答えがなければいけない気がして二の足を踏んでいる状況などを共有していく中で、方法論を伝えるためのワークや、経験を共有し意見を出し合うワークなど、ワークショップには大きく括って、授業型・ディスカッション型の二つの型があるのではということが見えてきました。いずれの形にも言えるのは、ワークショップにはファシリテーターが存在するということ、そしてファシリテーターはその場において何らかの形で権力/役割を持っているということです。

 授業型のワークショップがあるのだから、そういう関係性ができるのが自然なのにも関わらず、研究会参加者の中には少なからず、ワークショップの中で教える・教えられるの関係性が出来上がるのに疑問を感じる人がいました。そこで、はたと気付いたのは、それはワークショップではなくセミナーだということです。セミナーであれば、講師側も生徒側も教える・教えられるという構図を了解して参加しています。ワークショップは扇田昭彦さんの言葉を引くと、双方向性のグループ学習とあります。その枠組みの中でファシリテーターという立場を無邪気かつ無自覚に扱うことは、その関係性の了解もない場で権力を発動させ、ワークショップを一本の道として参加者にその道をたどらせるための機能として扱う事と同義です。ワークショップそれ自体が何らかの形で他人に影響を与え、また自らもその場や参加者から影響を受けるという認識を持った上でファシリテーションを一つの役割として担うことが、内容云々より前に場をつくるということにおいて重要なことだと感じました。
 
 個人的な見解を述べますとワークショップ、というものにあまりよい印象を抱いていません。枠組みや構造はとてもすばらしいと思うのですが、ワークショップという言葉の持つ、説明のしやすい創造性はとても使い勝手がよく、ワークショップという言葉だけが踊りだし、内容や本来言葉にあった目的やその経緯は踊り場の華やかさに気後れして自らどんどん壁際に下がっていってしまう、そんな光景を思い描いてしまうからです。踊りだす、ということはひとりでに踊りだすのではなくそこにその手を引いているひとも、照明を当てている人も、音楽を流している人もいて、さらにそれを写真におさめている人がいるということです。抽象的な言葉にしてしまいましたが、要は自らの創造性や自由度の高さ、開かれていることを表すために何かをすることがワークショップというものになってしまう危険性が高いという事です。少しオブラートに包んでみましたが、そういう現象が実際にとても多くあると思います。本来は、意見を出し合ったり、それぞれの持つ創造性を用いて何かをする、ということがワークショップなのではないのでしょうか。そんな私の疑問も壁際に追いやられているような気がします。
 
 ものすごく個人的な見解を述べてしまったついでにもう一つ。近頃ワークショップとか、ファシリテーションとか、パースペクティブとか、ナラティブとか、とにかくカタカナをよく目にするようになりました。そこで気にかかっていることがあります。このカタカナたちは何故カタカナのまま言葉として流通しているのかということ。もちろんカタカナのままでも全く問題ありません。オーバーコートの事を外套と呼ぶ方がよかろうという価値観は持ち合わせていません。問題はその言葉が生まれた土地と日本の歴史的背景やコミュニケーションの違いを突き合わせて、言葉の意味を省みるタイミングがあったのかということです。この新しいカタカナの言葉たちは、どこかでだれかを排除し得るものです。その時に意味を内省したことや、翻訳を試みるタイミングがあったかということがとても重要になってきます。殊に演劇においてコミュニケーションはとても大切な要素の一つです。また、演劇や観劇という行為は少なくとも日本においては広く世間に浸透しているとは言いがたい状況です。そういった現状がある中で誰かを排除しうる言葉を無意識的に流通させることは、演劇に関するコミュニケーションをカタカナの言葉たちを知っている人々だけに限定する事に直結します。そして残念ながら、演劇書やアート関係の本にあふれるカタカナを見ていると、輸入されてきた言葉を意味が通る人々の間で使い回しているように見えてしまうのです。
 
 言葉を尽くすということ。上記に長々書いたことは、もしかしたらこの一言で片付くのかもしれません。お気付きの方もいるかと思いますが、上記文章では、言い換えや、たとえ話、要は、とかつまり、なんて言葉が多く、正直自分でも「で、何が言いたいんだ」という気分になっています。でも少なくとも私は、あなたの創造性をひと言で表すのではなく、作品によって語ったり、創作の考え方において言葉を尽くして欲しいと思います。そして尽くされた言葉を丁寧に理解したいと思います。カタカナの言葉に関しても、それを生かしてたくさんの人とコミュニケーションができるように、一つの言葉についてじっくり意味を考えたいし、その意味を説明するのに言葉を尽くしたいと思います。
 端的な言葉で言い表すだけでなく、そう思った経緯や体験、たとえ話も含めてそれを伝えるために、そして伝えた事をさらに広げるために相互の言葉を尽くしてコミュニケーションをすることが対話であり、授業型・ディスカッション型に限らず対話を行う場がワークショップなのではないかと思うのです。言葉を尽くすと言いながら結論が少し飛びましたね。私も人に言葉を尽くせるよう努力します。
 
 次回は今回の研究を踏まえて実際にメンバーが一人ずつワークショップをファシリテーションしてみます。ファシリテーターが決めた道筋を進むワークショップでなく、広場をつくるワークショップを目指します。

​神戸 みなみ

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