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2018年6月18日 第2回

演劇創作の役割による、生活観の違い

 山田企画では、山田さんが当事者研究に造詣が深いこともあり、演劇人の為の当事者研究を行っております。4月から始まった企画ですが、6/18に2回目のWSが行われました。今回は2回目の模様と、派生して考えたことを記したいと思います。

 テーマは「自分がどうして演劇をやっているか?」ということから始まりました。

 演劇に関わるといっても、素地の異なる参加者との話し合いでしたので、演劇の「生活観」の違いが露わになり興味深いものでした。

 私は演出に関係した部門で関わることが大半ですので、多くの時間を自身の公演の設計(コンセプトを練る、企画をする、戯曲を書く、稽古するなど)に充てています。
 1つの演劇の企画に関わるとは、年単位の時間軸で動いているようなイメージ、もしくは「生活観」だったのですが、今回のWSで話を聞く中で、日本の演劇に携わる俳優、特に自力で出演する公演を交渉している方は、休み無く高回転で、舞台に出演している方がいるということを、改めて考えさせられました。もちろん、これは各演出家・俳優によって、個人差は大きく、一概には言えないということは前提ではありますが…

 このテンポ感の違いはどういったことに起因するのでしょうか?
 今回、話す中で、その原因が少し見えたような気がしました。

 参加者から、「ちょっとでも気になれば、オーディションを受ける」「飛びぬけて面白い演劇人はあんまりいない」という意見もあがりました。

 俳優の場合、圧倒的に、ある公演に出演したいことがあっても叶うことが難しい場合(高倍率のオーディション)があり、たとえ出演でき、一公演でても、関わるのは長くても3ヶ月ほどで、後の期間を持て余してしまう。
一方で本邦にはそれ以外の関わり方を提供する、年次契約で俳優を雇用する劇団・劇場は一握りですし、それが「出たい舞台」であるかは別問題です。
 そこで、〇〇の舞台に出演したいが、「取り敢えずでも」舞台に出演したいという望みに拡大していくのでは、なぜなら、大半の関わり方が、言うなれば、契約社員かアルバイトに似た期間限定のものであるから、「契約終了後に新規の勤め先がなければ、根本的に俳優というセクションでたずさわれなくなっていくのではないか」、という漠とした不安があるという仮説を考えました。

 しかし、万が一にも、出演し続けるためだけに参加する舞台があるとすれば、創造を作業化する危険性を孕んでいないとは断定できないのでないでしょうか?

 「稽古は楽しい 提案できる余地があるから」という意見もありました。

 創ることに寄与していないという感覚は、俳優の仕事を単調なタスク処理へと向かわせる可能性があるかもしれない。演出家は、共同制作者としての俳優から、その価値と表現という提案を作品に組み入れることが必要であり、もしそれを良しとしない場合、演劇の作業化は顕著になります。

 「提案が舞台創造に活かされた」という自己肯定がないままに上演を繰り返すことは、自発的なはずの行為を、強制行為へと変容させます。

 また、この問題は、上演に際して顕著になります。参加者が、「自分がカセットテープのように感じる 言われた通りに音を出すイメージ」と話してくれた通り、公演の1つの考え方として、各上演での質を保つために、稽古で最適解とされた芝居を再現する=演劇の品質保証を求められることもあります。勿論、プロの俳優として一定の行為を再現する能力は必要かと思いますが、そこにだけ収斂させてしまうのは、悲しい気がしてしまいます。

 当日も少しお話したのですが、以前、ルネ・ポレシュさんにお会いした時に、「役者自身が自分を大切にして欲しい」との旨の発言がありました。彼の舞台に出演した俳優の「もっと自分のことを語っていいんだ」という言葉を思い返します。

 以後のWSでは、こうした現状を変えうる実践的方法にも迫ってみたいです。
 私の感覚では、俳優に負荷を与えることでこうした問題の解決を試みた作品が多いように感じますが、個人的には演劇環境に興味があり、その観点からのアプローチはできないかなと思っています。

 小劇場演劇では、演出家(兼脚本家)は製作総指揮者かつ企画者・演出者であり、俳優は台本ロールを演じる役者であるという場合が多く、両者が固定された役割を担っていることにヒントがあるかもしれません。
 予定調和ならぬ、予定「不」調和を考えたいです。

小林 遼

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